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〝白騎士団〟物語 1-7

『天才の受難』

『一六時 北地域中央研究所第一会議室 会合』――――筆圧の薄い、流れるような雑な字で書かれた紙が、窓から吹き込む風に揺られて机上でぺらぺらと音を立てる。表面のラベルがすっかり黒く汚れてしまったインク瓶で押さえているからどこかへ飛んでしまうことはないが、丸められた紙のいくつかは床に落ちてしまっていた。

 研究者、ローディア・レイの自宅にある寝室であった。半開きになった窓辺では分厚いカーテンがゆっさゆっさと風に靡き、すぐ近くにあるテーブルの上に積み上げられた分厚い本を撫でている。入り口近くに背丈の高い本棚はあるが、そこはすでにいっぱいになっていて、部屋の中央にあるソファや椅子の上に、白衣やローブと一緒になって書籍類が乱雑に置かれていた。

 壁際に追いやられたベッドの上では、薄手の毛布が小さく盛り上がっているのが、もぞりと蠢く。もぞもぞ、もぞもぞと衣擦れの音をたてて、やがて毛布がめくれた。出てきたのは、ゆるやかに波打つ長い黒髪の青年である。ローディア・レイだ。

 まるで人形のように滑らかな白い肌に、通った鼻筋、そして長い睫と、線の細い姿は、少し見た具合では少女のようでもある。涼しげな銀色の目が眠たげにぼうっとしていることと、寝起きの髪が跳ね放題であることがなければ、精巧に造られた人形にも見えそうだ。

 彼は枕元に置いていた懐中時計に目を遣る。銀色の縁取りに、白い文字盤の時計だった。細く繊細な針が指し示すのは、一六時二一分。

 えっ、と、声がこぼれた。途端に目が覚める。時計を引っ掴むや素足でベッドを降りて、机上に置いたままのメモと交互に見る。やはり、見間違いなどではなかった。溜息がこぼれる――――またやってしまった。

 彼は取り立てて急ぐでもなく作りつけのクローゼットを空けて、そこから適当な服を引っ張り出す。鈍い色合いの細身のボトムスに、肩周りのゆったりとした上着を合わせて、編み上げのロングブーツをはいた。それで視線がずいぶんと高くなるが、いつものことだった。最後にソファの上に出したままのローブに袖を通すと、しわだらけの白衣を持って寝室を出る。

 顔を洗って髪の跳ねているのを直して資料と白衣とを革製の肩掛け鞄につめて、ということをしているうちに、時刻は一七時を過ぎてしまった。それでも彼が特別急ぐことはなく、家の戸締りをまったりと確認してから、家を出る。高級住宅地として間違いのない場所であるが、彼の庭先は他の家のように手入れの行き届いたものではなく、背丈の低い雑草が、敷き詰めた煉瓦の隙間から伸び放題になっていた。

 下草を踏みつけて、ローディアは短く息を吐き出す。ローブを着込んだ姿が陽炎のように揺れて、やがて消え失せた。移動のための魔術――一般に転移魔術と呼ばれる――を使ったのだ。

 

 

 斜面のなだらかな山の頂上付近を切り崩した場所に、表面を煉瓦造りにした大きな建物が三つ、上空から見下ろしたら三角形になるような配置で建っている。しかし入り口は共通で一つしかなく、そこを通ると、なかは一変して無機質な白い壁に覆われたエントランスになる。入ってすぐ右手には木目調に加工した石材のカウンターがあり、そこで受付係りの若い女が笑顔で出迎えるのだ。

 本日はどのようなご用件で?――――当施設のご利用は初めてでしょうか?――――手荷物のなかに規定違反になるようなものはございませんでしょうか――――そういった問答を少しばかりしてから、最後に羊皮紙へ署名を促される。警備が厳重なのは結構なことだが、ここで時間をとられるのが、ローディアには面倒でならなかった。

 受付を抜けると、道はいくつかに分かれる。渡り廊下を通って別の棟に行くか、入り口のあるこの棟の上の階へ行くかだ。今回彼の用があるのは第一会議室、この建物の三階部分である。建物全体に転移魔術での人の移動を制限するための魔術がかけられているせいで、そこまでは歩く必要があった。

 高い天井から吊り下げられた飾りランタンが照らすエントランスを突っ切って、簡素な手摺が備わっただけの壁際の階段を上る。二階は廊下にそって多目的室がいくつも並んでいるスペースだった。なかには休憩用のスペースなんかも用意されているが、ローディアが利用したことはない。

 三階に上ると、すぐ正面に艶消しガラスをはめ込んだ大きな扉があった。なかからかすかに人の声が漏れ聞こえる。ここが第一会議室だ。扉を開けると、広い部屋に出る。長テーブルをいくつも並べて、そこに何人もの人が並び、正面の小さなステージに立つ白衣の男を見ているのだ。彼の背後の白いのっぺりとした壁面には、映写機でもって写真がいくつか投影されていた。それらを横目に、ローディアは扉近くの一番後列の端の席に座る。鞄を足元に置くと、はい、と、隣から囁くような声とともに、薄い紙の束が差し出された。

「興味ありそうな項目だけまとめておいたよ」

 声のほうを見遣ると、しみ一つない綺麗な白衣を着た若い男が、柔和に微笑んでいた。ローディアの知っている人物――トラヴィス・ウォーカーだ。こういった会合ではしばしば顔を合わせるし、そうでなくとも、個人的な付き合いが深い。

 彼から渡された紙を受け取り、その中身を軽く眺める。綺麗に整えられていながら、さらりと軽い調子で書かれた文字が、少しの乱れもなく並んでいた。

「もらっとく」

 素っ気なく言って、ローディアはステージ上の男へ視線を向ける。丁度聴衆を見回していたらしい男と目が合った。初めて見る顔だ。面長で、自信に満ちたような顔つきだった。

 トラヴィスから渡された紙には、『精霊の魔術的再現』と研究題目が書かれている。精霊の生産する魔力を人工的に造りだすことを目的にしているようだが、その過程で一つの精霊と同じ特性の魔力を結晶化したものの生成に成功したとか。

 男の話を聞きながら、ローディアは眉根を寄せる。断言はできないが、この男は嘘をついている――――そう思わずにはいられなかった。男の理論では精霊の魔力は結晶化しないし、そもそも精霊と一口に言っても、様々な種族がある。さらに、種族が違えば、あるいは出現場所が違えば、その特性などだって変わってくる。分類上『精霊』としているだけで、その実まるで異なる生き物である、などということだって珍しくない。

 やがて彼の演説が終わり、次の人物がステージに立つ。あと二、三人が研究論文の報告を終えたら、次はローディアの番だった。『魔術医薬品の抗体への対策』と題しているとおり、魔術の効果を利用した医薬品への抗体がある人間に対し、どうやって薬を作用させるかといったものである。

 現在流通している医薬品には、魔術の力を利用したものは多い。個人差はあるものの、そういった医薬品は大抵の人に通用する。ただし、なかには魔術への抗体が強くて、そもそも魔術というものに体が反応を示しにくい人もいるのだ。そういった人間にも効果的に働くための医薬品研究であった。

 ローブを脱いで白衣に袖を通し、資料を片手にステージに立つ。白い壁面に資料の一番上にある紙を貼りつけながら口内だけで何事かを唱えると、壁のほぼ中央に黒い染みが現れた。染みは徐々に全体へと広がりながら、張り付けた紙に書かれた内容をそのまま転写する。

 白かった壁が文字で埋め尽くされたのを確認し、ローディアは短く息を吐き出した。

 

 

 予定されていた人数の報告が終了すると、次は個人の交流になる。その頃には窓の外などは夕焼けも暗くなり始めていて、ちらほらと帰り支度をする者なども現れる。ローブを肩紐にくくりつけた鞄を引っ提げたローディアも、長居をするつもりなど毛頭なかった。しかし、「少しお時間よろしいですか」と、丁寧な口調で声をかけられれば、振り切って会議室を出ることもできない。

 わざわざ後列にいたローディアのところまで両手サイズの木箱を抱えてきたらしいこの男は、精霊の研究論文を公開した人物である。近場で見ると、それほど年上というわけでもないのに、土色の髪にちらほらと白髪が混ざっているのが見て取れた。

「何か?」

「はい。私、『精霊の魔術的再現』の研究報告をしたジョザイア・スーベルと申します。実は、あなたに見ていただきたいものがありまして」

「俺に? トラヴィス・ウォーカーとかいるけど」

 言いながら、銀灰色の髪を探す。会議室のステージ近くで、別の研究員と何かを話している様子がすぐに見つかった。

「彼ももちろん優れた研究者だとは思いますが、私、あなたのファンでして」

「あんまり嬉しくないな」

「気分を害されたのなら申し訳ありません」

「いいよ、別に。それで、何を見せたいって?」

 肩にかけていた鞄を一度床に下ろし、ジョザイアと名乗った男の手元を見る。特に変わったところのない、白い色合いの木箱だ。厚みもさほどないし、試験管を寝かせて五本ほど並べたのが入る程度だろうか。

 ジョザイアは「これなんですけれど、」と言いながら、木箱の蓋を持ち上げる。入っていたのは、白い綿に包まれたシャーレだった。シャーレには無色透明な液体に緑色の不定形のものがひたされている。

「何、これ」

 ローディアはジョザイアから木箱ごとシャーレを受け取り、顔をしかめながら緑色のものをじっくりと睨みつける。表面にはかすかに艶があり、粘液のようなもので覆われているのが見て取れる。時折脈打つように全体が小さく震えていて――――

「……ッ!」

 木箱を人のいない窓際に向かって投げつける。途端に、何かが破裂した。シャーレだ。保存液をぶちまけながら、なかにあった緑色の塊が飛び出し、肥大化してそのまま窓ガラスにびちゃりと張りついた。まるで根を張るようにこびりつき、ドクドクと振動している。表面にはイボのようなものが無数にあって、それが時折ポコッと音を立てながら小さく破裂する。

 お前正気か!――――ジョザイアに怒鳴りつけようとしたときには、背後から何者かに肩を抱かれて、そのまま会議室の外へと強引に連れ出されていた。勢い余って、廊下に背中を打ち付ける。手足の先が痺れるようだったが、しかしそれなど安いものだった。

 ビチャリッ!

 いましがたまでいた会議室のなかで、粘つくような湿り気の強い音が一際大きく響いて、悲鳴のような声がいくつも重なって聞こえてきた。艶消しガラスは割れて、破片がローディアの上に倒れ込む人物へと降り注ぎ、扉の枠組みからは先刻の緑色のものがはみ出す。

 一通りの音が途絶えてから、ローディアを外へと引っ張り出した人物がゆっくりと体を起こす。トラヴィス・ウォーカーだった。

 彼はわずかに顔をゆがめると、しかしすぐに困ったように微笑んで見せる。

「大丈夫? 怪我はない?」

「俺はね。お前、それ」

 上体を起こしながら、トラヴィスの足元を覗き見る。右の脹脛のあたり、白衣では届かないところのスラックスが、まるで火で焼かれたようにして穴をあけていた。その下にある皮膚は――皮膚などは溶けてしまったようで跡形もなく、剥き出しになった肉もどろりとしていて血を流している。

「少し、粘液が飛んだみたいだね。まあ治るよ」

「治るにしても、これじゃあ……」

 言いかけたローディアを遮るように、トラヴィスが「それより、」と声を上げた。

「あんまり悠長に構えていられないよ。こいつがまた大きくなる前に逃げないと」

 よろけるようにして立ち上がったトラヴィスは、怪我を庇いながらもローディアに手を差し伸べる。受け取るわけにはいかなかった。いい、と短く言って体を起こしたローディアは、黙ってトラヴィスに肩を貸す。この建物から出るまでは、魔術での移動ができない。

「ありがとう、助かるよ」

「別に」

 会議室一杯に広がって蠢いている緑のものを一瞥し、ローディアは階段を目指す。急ぎたいのは確かだが、トラヴィスを置いて行くことはできない。

「お前、わかってたの? こうなるって」

「薄々勘付いてはいたさ。ジョザイア・スーベル、だっけ? 彼が何かしでかすと思って、少し監視してた」

「どうして」

「これから死ぬ人間ってのは、目が違うんだよ。死ぬ覚悟があるのとも違って、嫌な目をしている」

 一段一段、ゆっくりと下の階を目指しながら、トラヴィスがわずかに顔をしかめる。傷が痛んだのかとも思ったが、どうにもそういうわけではなさそうだ。

「ああいう人になってはいけないよ、ローディア。あれは狂気的だ」

「……。わかってる」

 エントランスに到着した頃に、階の上のほうでまたも破裂音のようなものが響いたのが聞こえた。このときにはすでに研究所内にいた多くの者がざわつきだしていて、ローディアが来たときにはほとんど誰もいなかったこの場所にも、白衣の人間がそれなりに集まっていた。施設職員の腕章をつけた者も散見される。周囲に集まった研究員達への事情説明に追われているようで、声をかけるには至らなかった。受付カウンターのところも似たような具合だ。

 このさい警告はしないでとっととこの場を離れてしまおうかとも考えたが、それも許されないようだ。

 皆様お静かに――――年配の男の声が、エントランスホール全体に響いた。魔術で声量を拡張しているのだろう、ざわめきのなかでも注目を集めるには充分なものである。いましがたトラヴィスとローディアの降りてきた階段を下る男が、寝起きのような瞼の重たい目で、その場にいる全員を見下ろしながら続ける。

「私は当研究所の管理責任者、ディック・ヘンウッドと申します。現状我々のほうから皆様にお伝えできることは、とにかく急いでここから離れること、この一点につきます。詳細は後々書簡にしてお送りいたしますので、どうかいまは皆様自身のご安全のため、落ち着いて正面入り口より施設外へ移動されますことをお願いいたします」

 しんと静まり返ったホールに男の声が反響し、やがて少しずつ、人の波が動き出す。錯乱して叫び回る者は、誰一人としていなかった。緊急の事態への対処法は、研究職に就くための基本知識だ。

 ローディアもトラヴィスを連れて、施設の外へと向かう。が、その途中、「レイ博士、」と、呼び止める声があった。ついさっきの男――ディック・ヘンウッドだ。

 恰幅のいい姿は、すぐに見つけることができた。人の間を小走りで近付いて来る。彼は人のよさそうな笑顔で会釈をすると、少しばかり早口に言う。

「ウォーカー博士も、脱出することができたようで何よりです。取り急ぎお二人に確認したいことがございますので、要件だけ申し上げます。現在軍へ連絡をして、部隊の派遣要請が認可されました。あの会合の生存者として、お二人のお名前を伝えてしまっても?」

「私は構いませんよ」

 先に答えたのはトラヴィスだった。いつも見せるような微笑を取り繕ってはいるが、首筋を汗が伝っている。足の怪我のせいだろう。彼を支える腕に、ぐっと力が入る。

「俺も、必要なら言ってくれて構わない。用が済んだなら帰らせてもらうけど」

「はい、足止めしてしまい申し訳ありませんでした。お大事に」

 ディックが恭しく一礼するのを見届けて、ローディアはさっさと入り口を目指す。できるだけ早く、トラヴィスを医者のところへ連れて行く必要がありそうだった。

 

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