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​“白騎士団”物語 1-24

​『次なる災害』

 陽が高く昇ったころ、フェルはツカサとあと五名の兵士とともに北地域中央研究所を訪れていた。ツカサとあと一人が新兵で、ほかはいずれも士官クラスの兵士であったが、フェルが補佐役に選んだのはツカサであった。

 白い壁に赤煉瓦を組み合わせた外観の三つの棟を見上げ、その入口に目を向ける。自警団の団長、アントン・ハガードがそこに待ち構えていた。

 彼は軽く目を伏せて、彼らを迎え入れる。

「お待ちしておりましたよ」

 こちらへ。施設内へ誘導するアントンに続きながら、フェルは入ってすぐのカウンターで待機していた自警団の団員から防護用のマスクと手袋とを受け取る。革素材に近いが、それよりも伸縮性があり丈夫な手袋であった。軍でもしばしば用いられる。

「進行状況は」

 カウンターで大きな黒い革製の鞄を受け取ったアントンが首を左右に振った。

「芳しくありません。レイ博士から薬を預かったのが今朝ですし、それまではまず手出しできませんでしたから」

 フェルは「そうか」と短くうなずく。薬については、少し前に報告があった。例の物質を構成する要素の一部を破壊して結合を解いてどうのというものだったはずだ。ようは、あのどす黒くなったジェルを溶かして安全に破壊するためのものである。

 ここだけは無傷なままの広いエントランスを階段に向かって歩きながら、アントンはしかし、と口を開く。

「今朝預かったぶんでは薬が足りないのも事実です。現在、トルーマン家所有の研究施設でレイ博士とヘンウッド所長を中心に開発を続けてもらっていますが、きょうだけでは到底終わらないでしょう」

 そりゃあそうだろうな。答えてから、半歩後ろを歩くツカサをちらりと見遣る。どこか非難するような目つきであった。

 アントンに続いて幅広の階段をのぼると、次第に鼻をつく異臭が強くなる。口元の布越しでもわかるほどだ。二階をすぎてもう半階ほどのぼったところで、階段を埋め尽くすような黒い姿が目に入った。ジェル状のねっとりとした塊だ。壁などにも同じような色のしみがある。

 アントンが片手に提げていた鞄を下ろす。形のしっかりとした長方形の鞄で、トラヴィスが似たようなものを持っていたのを思い出す。

 なかから出てきたのは、銀色の丸い容器であった。両手で包んでもやや大きいくらいのサイズで、上部からノズルとトリガーが伸びている。

「散布用の道具です。一時的にですが、施設建物内に限り転移魔術を可能にしましたので、棟のうえのほうから――――」

 アントンの話すのをなんとなしに聞きながら、黒く動かない物質を見る。ねっとりとしていて光沢のある表面は、事前の話ではすでに死んでいるはずだった。

 ピクリと、天井からの照明を反射する部分が動いた気がした。かすかに水の流れるような音が聞こえて、フェルはアントンの言葉を遮るように声を張る。

「退避だ! 急げ!」

 呆けたのは、新兵の二人だった。そのうちの一人の襟首を別の士官が掴んで階段のしたへと向かう。ほかの面々も同様にすばやく踵を返し、考えるよりさきに動いていた。最前にいたフェルは別で、ツカサをなかば抱きかかえるようにしてかばいながら、身を伏せた。直後に聞こえたのは、火薬でも爆ぜたかのような破裂音と、びちゃりという不愉快な音であった。

 左肩が熱い。見ると、緑色のどろりとしたものがはりついている。右手でそれを引きはがすと、ねっとりと糸を引いた。塊は投げ捨てて身を起こす。深緑色のどろりとしたジェルが行く手を阻むように伸びて、ドクドクと脈打っていた。この場所だけドーム状にぽっかりと空間ができているのは、脇腹のあたりから血を流すアントンのおかげだろう。溶けた隊服のしたの皮膚がどろどろになって剥がれている。

 立ち上がれない高さまで肉壁が迫っている状況だった。フェルはその場に片膝をつけつつ、先刻ほとんど下敷きにしてしまったツカサに目を向ける。半身を起こした彼は、背中をさすってはいるがおおきな怪我は見受けられない。

「命はあるようですね」

 アントンが皮肉っぽく言う。

「このままじゃどうなるかわかったもんじゃねぇけどな」

 素っ気なく返すフェルは、壁に手をつける。その強度はわからないが、こういった施設だ。分厚く強固なのは明らかであった。

 どういうことですか。ツカサの声が聞こえた。

「もう、活動停止しているって聞いていたんですけれど」

「不測の事態というのはつきものですよ。大尉……?」

 アントンの怪訝そうな声に続き、ツカサがなに考えているんですかと先手を打つ。

「怪我しているんですから、暴れないでくださいよ?」

 わかってる。口先だけの返事をして、フェルはぐっと右手の拳を握りこんだ。立てない以上普段のような踏ん張りはきかないが、それでもぐっと足を床に据えると、大きく肘を引いた。

 わかってない。呆れたようにそう呟いたのはツカサだった。

 フェルは黙ったまま壁を殴りつけた。拳に壁の軋む音が伝わり、間髪入れずに固い石が砕けた。轟音とともに振り切った腕に大小さまざまな瓦礫の塊が降り注ぐ。巻き上がった煙が視界をおおった。

 ほどなくして、外から吹き込んだ風が粉塵を取り去る。そのころには視界も明瞭になっていて、砕けた壁から外を見下ろすことができた。

「これは……なんと……」

 アントンの声が上ずっている。振り向くと、無気力に笑う彼と目が合った。

「魔術ではないんですね、これ」

「俺はこれしかできない」

 フェルは傷のない右手をツカサに差し出した。左手は、肩から流れた血でどろりとよごれていた。

「降りるぞ」

「飛び降りるんですか」

 ツカサの声は冷ややかだった。

「大尉、忘れたんですか? いまは施設建物内への移動なら転移魔術が使えるんですよ? もしかしてハガード団長の説明聞いていなかったんですか?」

「え、あ……」

「やっぱり聞いていなかったんですね、だから止めたかったのに」

 ツカサは少女のような幼さの残る顔をしかめる。フェルは黙るしかなかった。

 見かねたのはアントンであった。まあしかし、と口を挟む。

「実際、転移魔術を使ったとして、行先が確実に安全であるかはわかりません。エントランスだって、もしかしたら侵食されているかもしれませんし」

 ここが安全でしょう。言いながら壁際に寄ったアントンを見ながら、ツカサが不安そうに口を開く。

「大丈夫ですか、その傷で」

「問題ありませんよ、これでも自警団の団長ですので」

 金属で作った支柱と外側を覆う焼き石との断面をさらした壁に足をかけ、アントンはわずかに目を細めた。同じように壁の断面に片足をかけていたフェルからは、その表情がよく見えた。

「建物内外への行き来が制限されていただけなら、外に出てすぐに地上に移ればいいんじぇねぇか? 魔術で」

 ツカサとアントンがそろってフェルを見る。またなにか失言だったかと口を閉ざすあいだに、アントンがふっと笑った。

「そのとおりでした。では、私が先導いたしましょう」

 彼は手袋をはずした手をフェルとツカサとに差し出した。

 

 

 研究所施設の前では、自警団の四人と、フェルの連れてきた兵士が二名ほど待ち構えていた。ほかの三名は建物の裏手で派手な音がしたのを聞きつけて、降りてくるであろう彼らを迎えに行ったらしい。擦れ違いになったな。そう言うフェルを一瞥し、アントンは自分の部下達に向き直った。別の棟で作業をしていた面々だが、全員ではない。

 ほかの団員は。問いかけるアントンに答えたのは、右の前腕部の皮膚がどろりと溶けたミック・ウィンターソンであった。

「三名は行動不能のため病院に運びましたが、あとの五名はわかりません。もしかしたら、巻き込まれたのかも……」

 アントンが顔をしかめる。ミックは気まずい思いをするように口を開いた。

「いきなりのことでしたから。急に、あれが破裂して……。正直、軍の皆さんが無事なのが不思議ですよ。現場にいたんですよね」

「ロッド大尉のおかげだよ、彼らだけでなく、私も生きているのは」

 ちらりと振り返った三つの棟は、大半の窓が割られていて、そこから緑色のどろどろとしたものがはみ出している。アントンはギリッと奥歯をかみしめてから、部下と何事かを話しているフェルに向き直った。

「大尉、少しよろしいですか?」

「ん? なんだ」

「もはやこうなっては、我々だけでは対処できません。一度専門家の方々から意見を聞いて、出直してはどうでしょう」

 フェルからの返答にはやや間があった。

「わかった。お前の考えに従おう」

 見透かすような視線にさらされながらも、アントンは感謝しますと返す。それから彼は、部下の二人にレイ博士、ヘンウッド所長、ウォーカー博士、アラスター・トルーマンへの連絡を任せ、残った面々には生存者の確認を急がせた。

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