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​“白騎士団”物語 1-23

​『彼の密会』

 トルーマン家の屋敷でトラヴィスと『久しぶりの再会』を果たした翌日の夜、浅い緑色のワンピース姿のジェシカはイービスの街のはずれにある酒場の一つ、一階のスペースをなかば掘り下げて造ったような店に行くと、その奥――――文字通りの『奥』へと入る。

 この店は表の部分は酒場だが、ひっそりと隠された扉の向こうには細いのぼり階段があり、突き当たりの部屋が寝室になっている。特別な客だけが使うことを許されている空間だ。そしてジェシカもまた、その『特別な客』の一人であり、ここ最近は頻繁に寝室を利用していたのだが、きょうは特に珍しいことがあった。

 部屋の中央にあるベッドの斜向こう、出窓の近くに置かれた柔らかい一人掛けのソファに腰かける青年がいる。いつもなら仕事の都合で遅れて顔を出すのだが、きょうはどうしたことか。ジェシカが部屋に入ると、「早かったね」と、優しげな微笑で出迎えた。

「ウォーカー先生、早くいらしているなら、一言教えてくれたらよかったのに」

 言いながら、ジェシカは青年の――トラヴィス・ウォーカーのもとへと歩み寄った。背凭れの後ろから腕を回して肩のあたりにそえて、甘えるように顔を覗き込む。トラヴィスはジェシカの頬を優しくなでて、そっと唇にキスをした。

「予定外に仕事が早く片付いたんだ。ごめんね」

「許してあげてもいいけど、ね、先生?」

 わかっているよ。トラヴィスがそっと席を立つ。ジェシカはその彼の腕にしがみついた。

「ねぇ先生、私、先生のことが好きよ?」

「どうしたの、急に」

 ベッドのはしにそろって腰かけて、ジェシカはトラヴィスに寄り添う。彼の胸元に手をそえて、首のあたりに頭を預けるのだ。

「最近、お父様から結婚の話をよくされるの、でも私、お父様が決めたとおりの結婚なんて……。お父様のことは好きだけど、でも、ね」

「ジェシカは誰とならいいんだい?」

 ジェシカの髪を優しくなでるトラヴィスに、彼女はいじわるとつぶやいて返した。

「私が本気でないとでも思っているの?」

「きみが本気でもない男と夜遊びをするとは思っていないよ。それとも、危ない遊びのほうが好みだった?」

「はぐらかさないで」

 トラヴィスの肩を押す。彼の青い目を強く見据えて、責めるように口を開こうとしたところで、ジェシカの唇の前に彼の指がそっとそえられた。

「いいことを教えてあげよう、ジェシカ。きみのお父様はきみの望みをすべてお見通しだ」

「それってどういうこと?」

「昨日の夜、お父様から縁談の話を持ちかけられた」

 え、と、声がこぼれる。トラヴィスは穏やかに笑っていた。

「よりよい答えを返すつもりではあるけれど、災害があったばかりだし、俺もきみのお父様も、まだその調査が終わっていない。わかるね?」

 彼の言葉に顔がほころぶ。ジェシカは幼い笑顔でトラヴィスに抱きついた。彼の背中に回した腕にぐっと力をこめて、その首元に顔をうずめる。

「なんだ、そうだったの。私、勘違いしていたわ」

 彼の手がジェシカの髪を優しく撫でる。小さく笑ったらしい吐息が心地よくて、彼女はそっと目を閉じた。

 

 

 そろそろ朝日が差し込むという頃合いに酒場の裏口を出て、狭い裏道を店沿いに回り込んで表の通りへ立ち、トラヴィスはあたりを見渡す。正面にある宿屋も、そのとなりの雑貨屋も、まだ入口を開けてはいなかった。一階建ての小振りな造りの雑貨屋などはとくに、ドアに『Close』の木札を提げて、店のなかを見せる大きな窓にカーテンを引いて店内を隠している。朝靄のかかった煉瓦造りの町並みに、人通りはない。静かな空気はひんやりとしていて、自然と気分を落ち着かせた。

 酒場の隣、いまはまだ扉を開けていない香水屋の飾り窓の前に立ち止まる。トラヴィスはそこで人を待つように佇んだ。ほどなくして、宿屋と雑貨屋のあいだのほんの狭い路地から、すらりとした長身の人影が現れた。シルヴィオだ。艶のある黒いローブを着て、いまはフードをさげている。

 彼はトラヴィスのまえに歩み出て恭しく礼をした。その手には、もう一着のローブがある。トラヴィスのためのものであった。

「遅れて申し訳ありません」

「いや、時間ちょうどだよ。行こうか」

 ローブに袖を通し、トラヴィスはその裾を翻した。そのまま転移魔術を使うと、目の前がゆがむ。絵画の絵の具を溶かしていくような光景と、地面が消える浮遊感ののちに、またすぐに目の前に街が現れる。そのころには足は固い地面をしっかりととらえていた。

 民家が集まった通りだ。馬車が走るには少しばかり窮屈な道が規則的に交差する場所である。背の高い建物が少なく、少し見上げると、朝日を受けたトルーマン家の屋敷が正面から見えた。

 シルヴィオがすぐ背後に現れるのを確認してから、トラヴィスはフードをかぶって歩き出す。民家や小さな店なんかのあいだを縫うようにして、西側から屋敷の裏手へ回り込むのだ。直接目的地へと行かなかったのは、軍の兵士と遭遇するのを嫌ったからだった。彼らは転移魔術の痕跡を追うすべを持っている。

 トルーマン家の屋敷の裏手はちょっとした林になっていた。雑多に木々が生い茂るのではなく、下草を刈りこみ、木の枝葉も剪定されて程よく間引かれている。太陽の昇らない早朝や夕方以降は別として、昼間には木漏れ日が心地よく差し込む具合である。林のなかには川の支流が流れていて、こう静かな時間であると、ほんのかすかに水音が聞こえた。

 トラヴィスは林が見えだしたあたりで一度足をとめて、ローブのした、もともと着ていた上着の内ポケットから、金貨を一枚取り出した。いつぞや少年が持っていた偽金である。それをシルヴィオへと受け渡すと、彼は日頃から着用している白い手袋をそっとはずした。素手で偽の金貨を握り、なにかを確認するように沈黙する。ほどなくして彼は、静かに口を開いた。

「この方向で間違いありません。屋敷の裏口の近くかと」

 そう、ありがとう。トラヴィスが金貨を受け取る。彼はそれをローブの内ポケットに入れて、また歩き出した。

 トルーマン家の外周はぐるりと鉄柵で覆われている。それを伝うように、林を左手に見ながら向かったのは、トルーマン家別邸が鉄柵越しのすぐ目の前に見えるところだ。ちょうど、シルヴィオの言った屋敷裏口のすぐ近くであるが、それは別邸の影になって見えない。

 別邸といっても、大きなものだった。本邸より一回りほど小さいだけの、薄い赤色の屋根に白い壁の建物だ。窓などはよく磨かれているし、手入れも充分にされている。彫刻なんかの装飾は控えめでるが、目を惹くだけの姿ではある。

 ただトラヴィスが目をつけたのは、その建物ではなかった。低木に隠れて敷地内からでは確認しにくい場所の鉄柵がゆがんで、穴をあけている。小柄な子供ならば通り抜けられる程度のサイズだ。ゆがめられたのはずいぶん前のことのようでわかりにくいが、人の手によるものに見えなくもない。そこらのコソ泥でも侵入したのだろうか。

「これは俺達じゃ使えないね」

 片膝をついてかがみこみながら言うと、シルヴィオはじっとトラヴィスを見た。はっきりと反論をしないが、どこか否定的な視線である。

 トラヴィスはただの冗談だよと肩を竦めた。

「ここは、閉じさせてもらおうか」

 ゆがんだ鉄柵に指先をそえる。かすかに金属の軋む音がして、少しずつ柵が形を戻しかけたところで、誰か来ますとシルヴィオが囁いた。

 咄嗟に手を引いて、近くの木の影に隠れる。シルヴィオもそれに倣って、比較的光の差し込まない場所に身をひそめた。さいわい、この時間帯ならばあたりに陽光も差し込まず、黒いローブならば影に紛れるのは容易ではないができなくもない。

 ほどなくして現れたのは、ハルバルト軍の紋様、赤い大鷲の姿が背中に刺繍された外套姿の男二人である。そのうち一人には見覚えがあった。フェル・ロッド大尉とともに災害調査会議に現れた男、ジェイコブ・ガネル少尉である。屋敷周辺の巡回警備をしていたのだろうか、そんな予定は聞かされていないが。

 ジェイコブがゆがんだ鉄柵の前で立ち止まる。人がいたか? 彼の問いかけに、もう一人は首をかしげた。

 シルヴィオがトラヴィスに目を向ける。ここで片づけますか。尋ねるような彼に、首を振って答える。

 男達は依然としてそこから動かなかった。特にジェイコブがなにかを気にかけるように柵を見つめているのがわかる。そのうち、なにかを見つけたのか、低木に手を伸ばす。小さなものを拾い上げたようだ。

 嫌な予感がした。ローブの内ポケットに手を忍ばせると、そこにはしっかりと例の金貨があった。

 金貨だ。ジェイコブの声が聞こえる。シルヴィオがいよいよローブのしたに手を差し入れた。隠してある獲物を取る彼に目を向け、トラヴィスは黙ったまま首を振る。

 軍の二人が足早に立ち去るのを見送り、再び静かになったところにそろって姿を現す。へたに魔術で身を隠すよりも、こうやって息をひそめたほうが正解だったようだ。

「いまの二人は……」

「一人はジェイコブ・ガネル少尉。災害調査で派遣されている軍人だよ。まあ、あの彼の部隊ではないようだけれど。おそらく、もう一人も同じ、彼の部隊外から派遣された軍人だ」

 行こう。トラヴィスが踵を返す。ゆがんだままの鉄柵はそのままに、もと来た道を引き返した。シルヴィオもそれにつき従う。

 二人は屋敷の影が遠のいたところで、人目につかぬようにひっそりと転移魔術を使って〝白騎士団〟の拠点としている屋敷へと帰った。

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