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『夏祭り』 -小傘-

 陽が沈み、頭上に連なる提灯に火が入る。祭りの会場からほど近くにある駅前のロータリーはにわかにざわめきだしていた。ここを待ち合わせに使う多くの人が丸い花壇から伸びる時計の針を気にしている。小傘もまた、しきりに駅舎と時計とを見遣るのだった。沈水植物のクロモやセキショウモを植えた花壇の前で、巾着袋のなかにあるスマートフォンの着信を気にしている。きょうの彼はいつもの雨合羽じみたかっこうではなく、薄ピンクの地に麻の葉模様の入った甚平姿である。夏祭り用に誂えたものだ。
 時刻は夜の七時を回ろうかというころ。小傘は駅舎から出てくる少年の姿をみつけた。薄水色に金魚の柄が入った浴衣を着た風変りな少年で、慣れない新品の下駄に苦労しながら小走りで駆け寄ってくる。夜一だった。彼は小傘の姿をいち早く探し当てていたようで、控えめに手を振りつつ笑顔を見せていた。相変わらず口を開けようとしない笑い方だ。
「待たせちゃいましたか、先輩」
 夜一が両手で口元を隠しながら言う。マフラーを使えないこの時期は、これが彼の習慣になっていた。
 大丈夫と答えて、夜一に手を差し出す。彼は素直にその手を取った。連れ立ってゆっくりと歩き出す。
 ロータリーを抜けて、数分ばかり民家のあいだを通る道を進む。すると南北に走る大通りに出る。そこに幾多もの出店が連なっているのだ。夏祭りの期間は、ここの通りを封鎖して様々な催しが行われる予定となっていた。
 水底の夜は暗いのが常であるのに、祭りのあいだだけはむやみに明るい。店や提灯に火が灯り、そのあいだを多くの人が行き交うのだ。はぐれないように、という意味をこめて、つないだ手に少しだけ力を入れる。だが、そこにはなにもなかった。隣を見遣ると、ついいましがたまでいたはずの夜一の姿がない。手をすり抜けてどこかへ行ってしまったのかと思ったが、周囲をぐるりと見回しても、彼らしき影はみつからなかった。すっと背筋が冷たくなる。
 夜一。呼びかけながら、人の波のなかへと踏み込んだ。これがなかなかに大変なもので、一歩進めば知らぬだれかの肩がぶつかり、また一歩を踏み出せば別のだれかと肘が触れ合うようなありさまであった。しかも人の群れは停滞しているようで、前にも後ろにも流れがない。かき分けて進むだけでも一苦労だ。
 唐突に、強い潮の流れが巻き上がる。顔を伏せつつ両腕でかばいながら、目をぎゅっと閉じた。しばらくして再び目を開けると、人だかりは消え失せ、かわりに見慣れない影ばかりの大きな者たちが夜店をのぞいていた。そのシルエットは人のかたちであるが、全身が半透明な黒い影状になっていて、服らしい服は身に着けず、顔には白い面布ばかりをかけているのだ。姿そのものが影であるためか、彼らの足元には本来的な意味合いでの影が存在しない。身の丈は実に二メートルを軽く超えて、三メートルに届かんというほどだ。
 影たちに商品を提供するのは、同じく影の形であるが、それほど大きくはない。せいぜいが一メートルと半分くらいだ。彼らのあいだで交わされるのは、小傘の知る金銭ではなかった。小さな砂金の粒である。
 奇妙なところに迷い込んでしまったと思う。しばらくぼんやりと影の行きかうのを眺めていると、ふいに後ろから声がかけられた。小傘先輩。振り返ると、いつの間にか姿を消していたはずの夜一がそこにいる。
「こんなところにいたんですね」
「夜一くん。ここって、」
「わかりません。けど、きれいですね」
 彼が見上げたさきの空には、ぽつぽつと小さな明かりが灯っている。様々な色合いで柔らかく光るその景色は、かつて一度だけ船に上がって見た夜空というものを思い起こさせた。暗いなかにあって明るく、しかし眩しくない光の数々。手を伸ばせば届きそうに見えるのに、絶対に触れられないところにある不思議な星々。
「星空って、見たことある?」
 空を眺めたまま、小傘は隣に並んだ夜一に声をかけた。
「実は、本でしか見たことがないんです。夜のあいだは深海にいるので」
「ちょうどこんな感じで、いろんな光の粒がいっぱいに広がっているんだ。今度、一緒に見に行こうよ」
 小傘は夜一がはいと頷くのを確認してから、手をつなぎなおす。今度は離れないように、と付け加えて、出店のなかを影の人越しに覗くようにゆっくりと歩き出した。そのうち、大通りの端に到達する。そこには見たこともない大樹が一本植えられており、周囲に影の人が輪を作って座っていた。さらに外周には、四隅に大きな柱が四本建てられているのだ。よく見ると大樹には大きな注連縄が巻かれている。大樹を囲う影は手に赤い盃を掲げ、酒を飲んでいた。
 近づいてはならぬものだと咄嗟に思った。けれど、夜一がするりと隣をすり抜けて、影の作り出す輪のなかに入り込んでしまう。そこで新たな盃を受け取り、いつの間にか注がれた酒へ口をつける。まずいと思ったが、とめる隙はなかった。それに、どこか夜一の様子がおかしい。口元を隠そうとしていないのだ。影の人と会話をするような素振りを見せるのに、両手とも盃に添えられている。
 小傘は仕方なしに柱の内側へと踏み込む。途端に、水が冷たくなったような気がした。不快な冷ややかさではなく、ひんやりとしていて心地好い。夜一へと歩み寄る。彼の肩へ手を置くと、はっとしたように彼が振り返る。
「あ、先輩、」
 ほとんど口を開くことなく、夜一がつぶやいた。
「帰ろう、夜一くん」
「はい、でも、」
 夜一が言いよどむ。彼は影の人のほうへ目を向けた。ちょうど、新たな盃を小傘へ差し出すところであった。
 小傘は迷ったすえに盃を受け取る。すると、不思議なことに、盃の底から湧き出すものがあった。酒は注がれたのではなく、盃から溢れ出たのであった。
 お飲みなさい。男とも女ともつかない声が言う。影の人である。小傘は躊躇いがちに酒へ口をつけた。途端に、視界が華やぐ。うすくぼんやりと光っているだけだった頭上の煌めきは周囲のすべてを覆い尽くし、暗い背景は薄桃色に変わる。遠くから軽快な祭囃子が聞こえて、大通りにいる多くの影の人が踊りだす。何事かとあたりを見回していると、大樹を囲っていた影たちが立ち上がる。
 祝福を。祝福を。
 どこからともなく声が響いて、同時に潮が巻き上がった。顔を伏せる。祭囃子が遠のき、やがて聞こえなくなったころ。目を開くと、目前に夜一がいた。
「先輩、花火が始まりますよ」
 彼が指さすさきに、一つの火の玉が打ちあがる。やがてそれは、水面を越えることなく破裂し、大輪の花を咲かせた。
 夜一が笑顔で両手を打ち合わせる。やはり、口は開こうとしない笑い方で。
 次の火球が水のなかを走り抜け、頭上で鮮やかに爆ぜる。また次も、その次も。花火は絶え間なく打ち上げられていた。その光景は、影の人の行きかうなかで、上空に光の粒が広がっていたさまを思い出させる。
 祝福を。祝福を。
 あの声がまた聞こえた気がした。小傘は夜一の隣に並んで、「あのね、」と声をかける。
「夜一くん。ぼくね、きみが好き。好きだよ」


 それで。煙管を吹かす紅生が言った。お前さんは、それをどう思ったんだ。
 深海にある夢見屋『蜃気楼』でのことである。店のエントランスロビーを見据えるカウンターのなかで、彼は退屈そうに目を細めていた。奥の個室にも、ロビーにある待合の小洒落た柔らかなソファにも客のない暇な日である。小傘は彼に、夏祭りで見た不可思議な人のことを話したところであった。
「ぼくには、よくわかりませんでした」
「最近の子供ってのは、いま一つ頭が回らねぇんだな。いいか、『祭り』は『祀り』と書いて、神を呼び降ろすハレの日のことを指すんだ。神ってのは空気の振動するところに降り立つもんだから、祭りでは神輿を担ぐときに大きな掛け声をかける。声が空気を震わせるからだ。当然、夏祭りにも神は降りていただろう。お前さんは神々に迎え入れられたんだよ。影のような人ってのは、紛れもない、神々の御姿だ。面布をしていたんだろう? 神は人に顔を晒さない」
 紅生が煙管の灰を灰皿へ落とす。小傘はその様子をぼんやりと眺めていた。
「祝福を、と、言われました」
「そいつはよかったじゃねぇか。日ノ本の神々は人を祟ることさえあるところを、祝福されたんだ、素直に受け取っておけ」
 紅生は煙管を灰皿へ立てかけると、きょうは店じまいだと、店のそとに出してある行灯の火を落としにゆく。その背を見送りながら、小傘は花火のしたでの告白のことを思い出していた。夜一は耳まで赤くして恥ずかしそうに小さくうなずき、小傘の手をきゅっと握り返したのだ。祝福とは、このことだったのではないだろうか。そんなふうに思えてならなかった。

 

花火 傘夜.jpg
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