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『古書』

登場人物

 

凉衣……スズノエ

薬師……ヤクシ

雅……ミヤビ

 蝉時雨の日の昼間のこと。師の薬師から店の留守を預かっていた凉衣は、土間を正面に見据える位置に置いた文机で医療書のページをめくっていた。この薬屋は土間に客を招き入れ、この机で薬の注文を受ける。重篤なものは座敷にあげることもあるが、そういうのはたいてい、薬師の知り合いの医者に任せてしまう。注文書や客の名簿などをまとめて保管してある部屋などはあるが、正面からは壁で見えないようにしていて、調合室も客目にはつかない仕様となっていた。明り取りの窓などはなく、昼間でも店内が薄暗いが、足元に置いた行燈に火を入れるのは夕暮れ時以降だった。それでも字の読み書きができるのは、もうこの場所に慣れてしまったせいだ。

 凉衣の見る医療書は、もうずいぶんと古いものだ。書かれた文字などは擦り切れていて、紙も崩れそうである。いくらか丈夫に作ってあるはずの表紙は、しかし四隅がやぶれかけているありさまであるのだ。しかも、ページのところどころに紙魚が這ったらしい跡が残っている。師は決して物を粗雑に扱うような人物ではないから、これは珍しい。

 無地の着流し姿と、店番にしてはいくらか気楽な出で立ちの彼は、頬杖をつきながらため息をこぼす。いまばかりは飼い猫が散歩に出ていていないのをつまらなく思いながら埃臭い紙をめくってみると、細長く白い虫が飛び出して、凉衣の手の間をすり抜けて床の木目の隙間に逃げ込んだ。紙魚が残っていたのだ。

 床に這いつくばるようにして慌てて探すが、小さな姿はみつからない。ほかの紙を食われでもしたらたまったものではない。どうにか退治したいが、彼らの足は速い。

 どうか外に出て行ってくれ。願いながら姿勢を正すと、ちょうど薬屋の戸を叩く者があった。客なら勝手に開くはずだが、なんの用だろうかと怪訝に思いながら立ち上がる。土間におりて草履を引っ掛け、木枠の格子に薄い板を挟んだ引戸を開けると、唐草模様の風呂敷包みを背負った若い男がいた。背などは凉衣よりも低く腰も折れているが、顔つきは精悍で、なにより笑った姿に愛嬌があった。

「昼時に失礼いたします、貸本屋でございます」

 男の言葉に首をかしげる。貸本屋など、いままで一度だってここを訪れたことがなかったし、この店には書物を読んで物思いに耽る女などいない。そもそも、いまの時世に貸本屋ははやらない。

「すいません、行先を間違われてはいないでしょうか」

「いいえ、そんなことはございません。薬膳番付、骸姿手本、医薬見本、どれだって薬屋の旦那に恥じやしない。せめて話だけでもお聞き入れください」

 ずいぶんな自信を見せる男だ。凉衣は断ろうにもこの男が帰りそうな文句が思いつかず、ひとまず薬師の帰るのを待つため、彼を土間へ通した。しばらくそこで待ってもらい、座敷から若葉色の座布団を持ち出して上り框の奥に置いた。本来なら客が長居をする場所ではないから、こういった様式は正しくないのだろうが、かといって風呂敷を背負った男を立たせたままにすることも、店先を放り出して男を客間に通すこともできなかったのだ。

 時間もないからと男が立ち去るのを期待しながら、いまは店主が留守にしていること、自分では判断のつかないことだから店主の帰りを待ってもらう必要があることを断ってみると、残念なことに男は構わないと答えた。

 腰をおろした男は風呂敷をおろすが、その口を解こうとはしない。

「疫病総覧ですか」

 男が文机にある書物を見て言った。いましがたまで凉衣の読んでいた本だ。ページは開いたままであるというのに、男にはこれがなんという書物か、わかってしまうらしかった。

「ご存知ですか」

「もちろん存じ上げておりますとも。もう長いこと、貸本屋をしておりますもので」

 得意気な姿であるが、男の歳はどう見積もっても凉衣と同じ程度で、20を数えるはずもないくらいだ。それに、この男が本を抱え歩く姿は、町中でも見た覚えがない。

 もともとは九重様のところにも訪ね歩いたのですよ。男が風呂敷をとんとたたく。凉衣はいよいよ眉をひそめた。九重の屋敷は、この町よりずっと離れたところにある。山をいくつも越えて行かねばならぬのだ。

「ずいぶんと遠くからお出でになったんですね」

「あの場所を出なければならなかった」

 男は風呂敷を撫でる傍ら、懐に手を差し入れ、1冊の本を取り出した。表題にもなにも書かれていない、ただ紙を紐で綴じただけの本のようだった。

「受け取ってください」

「できません」

「雅様はお受け取りになられた」

 凉衣はなおもできませんと断った。男の様子のおかしいのはもとより、彼の風呂敷にも違和感を覚えた。貸本屋の荷物にしてはいささか大きすぎるし、体つきのいいこの男が背を曲げて運ぶほどの重さがあるのも気がかりだ。

「雅様はいまどこにいる?」

 九重の次期当主、雅は姿の美しい青年だ。凉衣も何度かだけ顔を合わせたことがあるし、彼の黒髪の艶やかなのはすぐにでも思い出せるほど印象的である。

「魂の居所なら、あなたの目の前さ。牡丹の刺繍のある表紙に、金糸を織り込んだ本だよ」

 男は片手で風呂敷を撫でている。その指の隙間から、なにかが這いだすのが見えた。白い虫だ。

 凉衣は男を力任せに突き飛ばし、虫が風呂敷の隙間からその内側へ忍び込むのを追いかけるように、結び目を乱暴に解いた。風呂敷のなかみは、たくさんの本であった。白い姿は見えないが、男が言ったような本なら、1冊だけみつかった。質素な出で立ちの書物のなかで、その鮮やかな紅の色は品よく目立っていた。

 古い書物と書物の間にうもれる美しい表紙に手を伸ばす。同時に、何者かに背中を突き飛ばされた。前のめりになって本の間に落ちるのかと思いきや、倒れた凉衣を受け止めるものがある。縮緬じわのよった和紙の大群だ。柔らかくて、独特の香りが鼻先を撫でる。

 からだを起こそうと手をつくと、ずぶりと沈み込んでよろけてしまう。もがいているうちに、全身が和紙に包まれる。香りは口のなかにまで侵入していた。

 男の手が背中側から回される。温度のない手に、凉衣は抵抗を諦めた。

 いつしか素肌を紙が撫でていた。男のすすりなく声がしきりになにかを詫びる。凉衣はなかば眠りながらそれに聞き入った。

 

 

 文机に突っ伏して眠っていたらしい。からだを起こすと背筋や肩が痛んだが、客前に立つには質素な着流しは相変わらずで、下敷きにしていた本も無事だ。貸本屋の姿は、どこにもない。

 左のほおに居眠りのあとがあるのを手で確認しながら、あくびをこぼす。そのおり、店の戸が開いて、白い狩衣に面布姿の薬師が人を伴って入ってきた。遅れて顔を見せたのは、ここらでは見かけないような上等な振袖の人物だ。紅色にいくつもの花々が咲き乱れる反物に対して、亀甲の帯はやや質素ながらも、鮮やかな色彩を引き立てるに充分であった。彼の艶やかな黒髪を簪でまとめた姿は、忘れようもない。九重雅である。

「目は覚めたか、凉衣」

 薬師の叱責する声。凉衣はあわてて立ち上がり、土間におりた。

「師匠、どうして、」

「茶菓を用意なさい」

 薬師は凉衣をぴしゃりと遮った。面布で表情こそ見えないが、その声は逆らうことを許さなかった。

 仕方なく店の奥に下がろうとする凉衣を、雅が引き止める。

「お気遣いなく。すぐに発たなければならないので」

 これ、百日萬ノ薬ですか。彼は文机のほうに近づくと、細い指を書の表紙に触れさせた。そこにあるのは、古い見た目はそのままだが、凉衣が読んでいたはずの医療書などではなかった。

「留守を預けるのはまだ早かったかね。こんな古いもの、どこから探し出したのか」

 薬師が上り框にのぼる。調合室に向かう背中を言葉もなく見送り、凉衣は雅に視線を戻した。

「なあ、その本……」

「ずいぶん前のことですが、先代が懇意にしていた貸本屋が夏の暑い時期にからだを患いそのまま亡くなって、わけあって彼の書物はうちが引き取ることになったんです。身寄りのない男でしたから。そのうちの1冊がこれと同じ、百日萬ノ薬でした。恋物語なんですよ?」

 雅がそっと本を持ち上げる。表紙をめくる手は、懐かしむというよりも、慈しむようであった。

「貸本屋は、あんたのこと知っているみたいだった」

「彼の魂を弔ったのは、僕ですから。でもお恥ずかしながら、未練を残してしまったようですね」

 本を置いた彼は、ゆるりとした動作で凉衣を手招きする。薬師に聞かれたらまずい話でもあるのかと式台におりて身をかがめると、頬に彼の手がそえられて、ふわりと唇が重なった。

 雅はくすくすと笑っている。そのうち薬師が和紙に薬を包んで現れた。雅はそれだけ受け取ると、ていねいに御暇を告げて店をあとにした。

「貸本屋か。またずいぶんと妙な縁もできたもんだ」

 薬師が面布をとって言う。文机のまえにどかりと腰を下ろして百日萬ノ薬の表紙を開いた。虫食いだらけの紙が姿を現す。

「おおかた雅様が惜しくなったんだろう。しつこい男だ。凉衣、麻の葉を用意して竃に火を入れろ」

「燃やすのか」

「それしかあるまい」

 凉衣はそれ以上なにも言わず、黙って調合室に向かった。紙の類を入れておく部屋のすぐ隣、唐紙障子で仕切られた場所だ。廊下よりも一段低くして正面の土間と同じようなかたちにしていて、竹編風の勝手口からは裏庭へ出られる。一角には茣蓙を敷いて大きな桐の棚を置き、薬草などを収めていた。麻の葉も、ここに入っている。

 麻の葉は3枚を出して、棚の正面に陣取る調合台のうえに並べて置いた。換気用の窓の下に3つ並んだ石の竃に薪をくべて火を入れる。火はまたたく間に広がり、強さを増した。そのころに薬師が現れて、古い本を麻の葉でつつんだ。それを火へくべると、ページの合間から白いなにかが這いだして、壁を駆け上り窓から外へと飛び出した。

 薬師はなにも言わない。長い髪を揺らして踵を返すと、また店先へと帰ってしまった。残された凉衣は、火の燃え尽きるのをただ待ちわびた。

 

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