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『ぬばたまの』 其ノ一

ぬばたまの月

 祝福の鐘が鳴り響く。多くの人の見守るなか、まるで天使が手を差し伸べたような木漏れ日の差す緑の庭を抜け、私達は純白に彩られたステージにあがった。色とりどりの美しい花びらがシャワーとなって柔らかく降り注ぎ、その一片が清純の白いドレスの肩に乗る。私が指先でそれを払うと、月世さんは優しく微笑んだ。

 私達は言葉もなく互いを見つめ合い、やがてそっと口づけを交わす。甘い香りがした。パンケーキにとろりと溶けたバターを乗せたような香りだった。

 私は目を開ける。人の顔のような木目の天上が見えた。ゆっくりと体を起こすと、薄手のタオルケットが膝に落ちる。開け放たれた東向きの窓からは、春先の生暖かい風が吹き込んでいて、それにのってパンケーキの匂いも私の部屋に届いているようだった。

 すぐ隣に布団はなく、そこに寝ているはずの人もいなくなっていた。ただ青々とした畳があるばかりだ。立ち上がって壁際にある作業用のデスクに歩み寄る。二人が並んで仕事ができるデスクで、奥行きはもちろん、横幅もほどほどにあったが、いまは二台のノートパソコンと多くの筆記具、分厚くなったフォルダなどが乱雑に置かれていて、ずいぶんと狭く感じた。手前のほうのほとんど中央には、無理矢理に開けられた小さなスペースがあり、『朝食までには帰る』と書かれたメモ用紙が、エアコンのリモコンで押さえられていた。先の細いペンで書いたきれいな文字だ。月世さんの字だというのはすぐにわかるし、ここにメモを残すのも、彼しかいない。

 私はデスクの奥にある本立てに立てかけたクリアファイルを一つ抜き取り、月世さんのメモを挟む。黒色一色で中身がわからないこのファイルには、月世さんが私に宛てた文字の一部が収まっている。収まりきらなくなったぶんは、デスク下の引き出しのなかに、諦念にまとめて保管してある。

 これを知れば月世さんは蔑むような目で私を見るだろう。その表情を想像しただけで、私は天にも昇りそうな心持になる。

 クリアファイルを戻してから、布団を畳んでしまう。入り口脇の押入れには、確かに月世さんのぶんの布団がしまわれていた。その上には充分な空きスペースがあったが、彼の使った布団のうえに私が寝ていた布団をかぶせるのは、理性が許さなかった。少し窮屈ではあるが、すでに天上に届きそうな布団の山の上に、敷布団とタオルケットのセットを押し込む。

 部屋を出てスリッパをはく。この前神住さんが気を遣って私と月世さんのぶんをお揃いにして買ってくれた、うさぎのスリッパだ。立体的に飛び出した耳が足首のあたりをくすぐる。

 目の前の階段を降りると、廊下の先のリビングのほうから漂う匂いはさらに存在感を増した。艶消しガラスの嵌め込まれたドアを開けると、椅子に座って新聞に目を通す月世さんの姿がまず視界に飛び込んできた。

 窓から差し込む光に背を向ける彼は、いつもどおりに綺麗で、私の伴侶として申し分なかった。前髪のほうだけ長くしたショートカットの黒髪は午前中の陽光を受けて艶やかな色彩を呈し、伏せられた目は知的でありどこか冷たい金色をしていて、まさしく宝石のようなのだ。肌は絹よりも滑らかで、ちらりとのぞくうなじが妙に色っぽい。

 彼は私に気づいているのか、あるいは気づかないふりをしているのか。新聞から一切顔を上げようとしない。私がすぐ隣の椅子を引いてそこに腰かけても、まるで無反応であった。

 かわりに、キッチンのほうから「あら、」と若い声がした。

「おはようございます、月雲さん。きょうはゆっくりなんですね」

「おはようございます、神住さん。ちょっと、いい夢を見ていまして」

 パンケーキを皿に乗せる彼女に軽く会釈して答える。

 神住さんは、しっとりとした長い栗色の髪を耳の後ろで一つに束ねた女性だ。目尻の少し垂れた大きな目をしていて、その顔の印象だけでなく、喋り口調もずいぶんとおっとりとした人である。月世さんも、彼女の喋るときには新聞のうえのほうからちらりとその聖母のような笑顔を見ていた。

「どんな夢を見てらしたの?」

 溶けたバターを乗せたパンケーキ二人分を運びながら、彼女は嫌味なく首を傾げる。

「大勢の人から祝福される夢です。私の隣には、真っ白いドレスを着た素敵な人がいて」

「あら、素敵」

 神住さんが私と、新聞を折り畳んでテーブルの端のほうに置いた月世さんとの前にそれぞれ皿を並べた。甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

 続いて神住さんは縁に銀色の装飾のついたトレーにティーセットを乗せて運ぶ。以前、月世さんが手伝いを申し出たとき、いいんですと断られていたことを思い出した。

「そういえばお二人は、いまお付き合いされている方はいるんですか?」

「いえ、いまのところいませんよ」

 月世さんがいち早く答えた。相変わらずの聞き心地のいい声だった。語りかけられたわけでもないのに、体の奥のほうが温かくなる声だ。

 彼は一呼吸の間のあとに、さらに言葉を続ける。

「神住さんはどなたかと?」

「いいえ、私にお相手してくださる方なんて、そうそういなくって」

「神住さんは素敵な女性だと思いますよ」

「ありがとうございます。さ、召し上がってくださいな」

 そう言って神住さんがトレーをキッチンのほうに下げる。まだ家事の残っているらしい彼女は、一度部屋を出て行った。

 月世さんが頭を抱える。私の位置からだと、細くて繊細な彼の指がよく見えた。

「月世さん、」

「何も言うな」

「あなたには私がいるじゃないですか」

「僕に『その趣味』はない」

 月世さんが顔を上げる。彼は深い溜息をこぼすと、いただきますと手を合わせてパンケーキを小さく切り分けにかかった。

 私も彼に倣いパンケーキにナイフを入れる。

「そういえば、月世さん、今朝はどちらに?」

「仕事だ、仕事。鬼が複数個所で同時発見されて、常駐の兵士だけじゃ手が足りなくなったとかで、僕のところにも召集がかかった」

「無事に帰還されて何よりです」

「あれも、まだ成熟しきっていなかったからな」

 少しばかり、月世さんの眉根にしわが寄る。私も呼んでくれればよかったのに、と呟くと、彼は小さく首を左右に振った。

「これも承知で、僕はこの仕事をしている」

「そうですか」

 私には他にかける言葉がなかった。

 月世さんのことは、少しだけ知っている。帝都からはそれなりに離れた田舎町の出身で、父の反対を押し切って上京し、軍の養成学校に入ったのだとか。成績良好で順調に学校を卒業して、かねてからの希望通り特務警備部帝都西支部に所属、と。それ以上のことは知らない。私が月世さんと知り合ったのは、ほんの半年ほど前のことだ。

 彼は、部屋を間借りしたいが家賃を抑えるためにと、不動産屋を介して相部屋のできる人を探していた。もちろん、その時点で神住さんの了承も得ていた。私も丁度帝都西区に部屋を探していたところで、まさしく運がよかったとしか言いようがない。初顔合わせで家賃や光熱費や他費用の割り当てなんかを、神住さんも交えて詳細に取り決めて、すぐに部屋を渡された。

 あのときの月世さんは、いまよりも少しだけ無愛想だった。思えば、緊張していたのだろう。若い女性の一人暮らしに男二人で部屋を借りることに、引け目があったのかもしれない。何度も、申し訳ない、ありがとうございます、を繰り返していた。

 白い陶器の皿のうえが片付き始めたころ、リビングのドアが開いて神住さんが戻ってくる。

「月雲さん、お手紙が届いていますよ」

 どうぞ、と渡されたのは、白い封筒だった。縁取りに薄桃色の曲線が引かれていて、ほのかに甘い香りがする。表には確かに私の名前と、ここの住所が記載されていた。裏面には縣小夜とある。

「ありがとうございます、あとでゆっくり読ませてもらいます」

「患者さんから?」

「はい。この前、治療を終えたばかりの女の子から」

 あら、と小さく笑って、神住さんはキッチンに向かう。コンロ台周りの掃除にかかるのだ。そのころには月世さんが朝食を終えていて、ご馳走様でしたと丁寧に手を合わせる。席を立つと空の食器を持って流し台に向かい、濡れた布巾を持つ神住さんを見遣る。

「美味しかったです、ありがとうございます」

「お粗末様でした。片付けはしますから、お仕事、頑張ってきてください」

 月世さんが軽く会釈をして答える。毎日、毎食後の恒例となった挨拶だった。彼は神住さんの作ったものならなんでも美味しいと言うし――実際味がいい――、そのことを毎回伝えて、ありがとうございますと言う。だからか神住さんも、月世さんの好きそうな甘いものを作ることが多くなる。

 月世さんが私のほうを見る。仕事には遅れるなよ、と言って、彼はリビングを後にした。

 

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