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『ぬばたまの』 其ノ四

匂い

 

 私が月世さんと同じ部屋で生活するのは、偶然の結果ではないのだと思う。この世に偶然は存在しないというような飛躍した話ではなくて、私はあの人に招かれたようなものなのだ。

 月世さんからは私達の好きな匂いがする。それは一〇キロも二〇キロも離れていても、風に乗って運ばれてくればすぐに気づける匂いで、意識的にでも無意識的にでも誘われてしまう。

 以前、月世さんにそんな話をしたことがある。信じてはもらえなかった。けれど上京する妹を近くに置かなかったのは、やはりそのことを気にかけてなのだろうとは思う。

「そういえば、月世さんの妹さんって、どんな人なんですか?」

 夜、布団を並べて敷いたところで問いかける。風呂上りで浴衣姿の月世さんは、布団の上に腰を下ろしながら不愉快そうに眉根を寄せた。

 あぐらをかくと脹脛が浴衣の合わせ目から覗く。それを見すぎないように眺めて、私は自分の敷いた布団の上に正座した。

「そんなこと教える気はさらっさらない」

「月世さんの妹さんなら、きっとすごく可愛いんでしょうね」

「……」

 月世さんは答えなかった。なんの反応もない。無言で私を見据えている。何を考えているのだかわからない目は、不思議といつもの冷たさを感じなかった。

 布団に両手をついて、彼に少し近づく。両腕を伸ばして抱きしめようとすると、手の甲で胸元を殴られた。このときにはもう、月世さんの目は氷水のような温度まで下がっており、まるで私が道端に放り捨てられた汚物であるかのような視線を投げかけていた。

「愛していますよ、月世さん」

「寄るな、気持ち悪い」

「以前私があなたに話したこと、覚えていますか? あなたの香りのこと」

「忘れた。思い出す気もない」

「あなたには私達を魅了する匂いがある。どこでそんなのを拾ってきたんです?」

 月世さんの肩に手を乗せる。その手首を掴む力は、確かに抵抗や拒絶の意思が強いようだけれど、どう足掻いたところで月世さんも人間の例にもれず、私を押しのけるにはあまりにも非力だった。

「安心してくださいよ、手荒なことはしません」

「触られること自体が不愉快なんだよ」

「鬼のこと、知りたいでしょう?」

 彼をそっと布団の上に横たえる。手をついて転ぶまいと抵抗するのも、可愛いものだった。

 月世さんの恨めしそうな目が、私の額の部分を捉える。鬼の角は四本、そのうち二本が額のあたりにある。これを月世さんが見るのは、確か二回目。

「もう一度聞くけど、お前罹患者じゃないんだな?」

「違いますよ、私は純正なんです」

 彼の額にキスをしようとしたら、口を手でふさがれた。その手を舐めると、今度は無言で頬を叩かれた。そのまま私の浴衣で手の平を拭う。

「で、純正の鬼がなんだって?」

「彼らには知性と力とがあって、人のなかに紛れることができます、私みたいに。そうしてきっと、あなたの匂いに誘われて集まっては、虎視眈々とあなたを狙うでしょう」

「話が飛んだな」

「雌のフェロモンに引き寄せられる雄の虫と同じだと考えてください」

「虫けらか、丁度いい例えだ」

 蔑むような目が私を睨む。背筋が震えるようだった。

 冷淡な目に見惚れていると、また頬を叩かれる。以前、月世さんをこうやって押し倒したときには痣になるほど殴られたのだが、いまはそれほど痛くもないし、きっと赤く痕になることもない。加減されているのだとわかる。朝になって神住さんに事情を聞かれるのを恐れているのだろう。

「月世さん、あなたのこの匂いは、おそらく先天性のものではない。純正の鬼の一部しか、こういう匂いはしないんです。それに、幼少期からこんなにいい香りを漂わせていたら、それこそ鬼に攫われて今頃はどうなっていたことか」

 あたかも奴隷のように鬼の欲望の矛先を向けられ乱れる幼い姿が脳裏に浮かぶ。幼少の月世さんは、苦悶の表情で目に涙を浮かべていた。

 心臓が早鐘を打つ。月世さんの滑らかな頬を撫でると、苛立ちを全面に押し出した舌打ちが聞こえた。

「僕をダシに何妄想してるんだよ、お前」

「内緒です。ところで月世さんは、人がどうして鬼になるのか、ご存知ですか?」

「例の、菌の一種が体に入り込んで、ってことか?」

「あれは正確には種付けの結果なんです。人の体内に鬼の素となるもの――これがいま菌と認識されているものですが、それを植え付けて、その人間が別の誰かと交わることで鬼の子供が生まれるんです。植え付けられた人間の大半は、私達から見た『鬼もどき』になってしまうんですけれど」

 月世さんが顔をしかめる。あまり好きな話ではなかったのかもしれない。

 私は彼の顔の輪郭を指でなぞっていた。

「菌を植え付けられても、変調の表れない人間もいます。そういう人の子供が鬼になる。また、交わった相手にも、少なからず鬼の要素となるものが混ざります。ときには鬼もどきになりますが、これはどちらかといえば珍しい例です」

「僕は鬼を憎んでいるわけでも敵視しているわけでもない。だからお前らの繁殖のために人間が犠牲になっていたとしても、それはそれで仕方ないと割り切ろう。鬼も生存競争のなかに埋め込まれた生き物、ってことだろうから。ただ、それを僕に話した理由はなんだ?」

「あなたに知ってほしかったからでもあり、あなたを知りたかったからでもあります」

 淡々とした声音で言い切った月世さんの頬にキスをする。先刻のような抵抗はなかった。

 首筋を撫でて鎖骨に触れて、そっと襟をはだけさせる。肩口に唇を添わせようとして、唐突に後ろの髪を鷲掴みにされた。

「いい加減にしろよ、変態野郎」

 どすの利いた声に、ぞくぞくとした。顔を上げると、見下すような目で私を睨む月世さんがいて、脈が速くなるのがわかる。

「月世さん、一晩だけでも、私と……」

「絶対に嫌だ。眠い。明日も仕事なんだよ、寝かせろ」

「生殺しですよ、これじゃあ」

「あっそ。どうでもいいから早く退け」

「押し退ければいいじゃないですか」

「無駄に力があるんだよ、お前は」

「なら押し負けるより他ないんですよ、あなたは」

 唇を重ね合せようと顔を近づける。と、鈍い音がして、額が痛んだ。

 我慢の限界だと言わんばかりの顔つきで、月世さんが拳を構えている。次は目でも殴りにきそうな様子に、それもいいかと思わざるを得ない。

 いまの彼は、どうしたって明日神住さんに顔を見られることを考えて思い切った行動に出られない理性と、いっそ何も気にせずタコ殴りにしてやろうかというストレス発散との葛藤に震えているようだった。

 そろそろ私も彼の上から退く。足元に折り畳んだままの薄手の毛布を彼にかけて、睨まれながら吊明りの紐を握った。

「きょうは寝ましょう。この続きはまた今度」

 明りを消すと周囲は本当に暗くなった。人がこの暗がりに目を慣らすまでに、どれくらいかかるだろうか。

 動こうとしない月世さんの隣に膝をつき身を屈ませて、その頬に手を添える。抵抗されるよりも早くキスをして、柔らかい唇の感触を堪能する。私が本当に諦めたものと思い込んでいたらしい月世さんからの反応は、ワンテンポほど遅れたものだった。胸倉のあたりを拳で殴られる。さすがに喉の奥が締まるような思いがして、私も月世さんから離れる。

 言葉はなかった。月世さんは私に背を向けると毛布をかぶって眠りについた。

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