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『夢胡蝶』

 格子の嵌め込まれた窓には白いレースのカーテンが引かれ、外を覗けば屋敷を囲う漆喰の塀が見えた。板張りの座敷に毛足の長い上等な絨毯を敷いて、部屋のほとんど中央にベッドを置いている。これが特別にあしらえられたもので、木枠の四隅には金色の彫刻飾りがしてあるし、足の長さが極端に短くて、ベッドと床との間のスペースなどは腕も入るか怪しいほどだ。

 部屋には鏡台も1つあるが、これには藤色の薄い布をかぶせてあって、何かを映して見る具合ではなかった。西側の壁際には目隠しに衝立があって、その向こう側は水回りの部屋だった。広い屋敷のなかで、ここだけが独立しているのだ。

 1つだけある扉は内側からでは開かない。外側から錠前を開けるしか方法はなく、仮にここから出たとして、屋敷の誰かに見つかればその場で始末するよう、ここの主人が屋敷に出入りする者すべてに厳しく命じている。頬に墨の入っているのは、この屋敷のなかでは白妙だけであった。

 この白妙という名前は、彼の生まれながらの名前ではない。この屋敷に入り、白小袖をのみ着せられ、白妙と名乗るよう言い渡された。

 彼は華奢な体でベッドに横たわり、いつ来るともわからぬ主人を待つ。この主人が変わり者であった。年齢などは白妙とさして変わらない18、9であるというのに、すでにここの当主として屋敷を仕切る傍ら、白妙のような売れ残りを好き好んで買い付けては暇潰しの道具として使い潰す。

 分厚い木の戸の向こうで錠の開く音がした。入って来たのは、やはり主人だ。わざわざ人など買わなくとも女が勝手によってきそうな涼しげな風貌の青年である。あるいは彼は、男を女として遊ぶのが趣味なのだろうか。

 この主人は白妙から声をかけることを許さない。また、主人の名前を呼ぶことも禁止していた。

 白妙はゆっくりと体を起こすと、ベッドの上で両足を抱えるようにして座り込んだ。主人は相変わらず、感情のないような温度のない目で小さくなった白妙を見つめる。

「外に出る時間だよ」

 部屋に踏み込むことなく主人が言った。飴玉を口のなかで転がすような、ほのかに甘く香る透き通った声だった。

 白妙は目を見開いた。ここに連れて来られてから半年以上が過ぎているが、この部屋から出ることを命じられたのは初めてだ。早くしろよ、と主人が苛立ったふうもなく言うのを聞いて、白妙はゆっくりとベッドから降りる。木の枝のような足でとぼとぼと歩く彼を、主人は扉を開けて待っていた。

 ひんやりとした床を素足で踏みつける。廊下は正面に長く伸びていて、突き当りは階段になっているようだった。左右には襖がいくつも連なっていて、立派な松の枝に鷲が1羽とまっている。

 背後で扉の閉まる音がして、すぐに主人が白妙の前に立った。そのまま歩き出す主人の背中を追って、白妙はよたよたと歩く。

 廊下を進んで階段を上り、格子戸のガラス越しに夕日の差し込む渡り廊下を進んで――――屋敷の本丸を目指していることは白妙にもわかった。渡り廊下の向こうは豪奢な吊明りが足元の床目をオレンジに照らして、照明から垂れるガラスの房飾りはきらきらと光っている。絢爛の襖は長く続いていて、合間にある柱は艶やかな漆塗りだ。

 ふと目の前を行く主人の後ろ姿に目がとまる。背中の中程まで伸ばした黒髪が、いまは簪で頭の後ろにまとめられていてほんのりと青く光りを反射している。全体的に線が細く、色白である。生きている人間というよりも、人を誑かす妖怪か物の怪のような印象であった。

 主人が大鷲の描かれた金箔襖の前で足をとめる。丁寧に膝を折り、襖の向こう側の様子を窺うように「お連れしました」と声をかけた。

 白妙は不思議でならなかった。ここの当主が、いったい誰にひざまずくことがあるというのだろうか。

 入りなさい、と、低く重たい声がした。主人が襖をそっと開けると、広い座敷の奥、床の間の前に座椅子を置いてゆるりと腰かける男ぶりのいいのが目についた。主人に似て色白ですらりとした輪郭の持ち主であるが、その年齢は少し見た具合ではわからない。朱色に金色の雷文繋ぎの文様の入った着物を着崩す姿は、20代の後半にも、40の手前にも思える。

 失礼します、と、主人が敷居を越える。男の真正面に正座して一度深く頭を下げると、男が口を開いた。

「顔を上げなさい、雅。お前の預かったのを見せてくれ」

 はい、と、静かな声で答えた主人が白妙のほうを見遣る。白妙はただ、何も言えずに廊下に佇んでいた。

「入っておいで、白妙。新しい名前をあげよう」

 男がゆるりと言う。彼に招かれるまま、白妙は座敷へと踏み入った。主人の前へ出ることが許されるのかわからなかったが、白妙を無感動に見つめる彼が何か言う気配はない。

 男の前へと進み出でて、白妙はおずおずと膝を折って正座した。作法など知らなかったし、この屋敷での決まり事も聞いたことはない。主人に言われるがまま、されるがままになっていただけである。

「さて、なんと名づけたものか」

「それには腰の位置に蝶のような痣があります」

 主人の言うのを聞いて、思わず白妙の手が自分の左の腰のあたりを押さえる。昔からそこに痣があって、なんのときにできたものなのかわからないのだ。

 男を見ると、彼は形のいい唇で笑っていた。

「夢胡蝶。そう名乗りなさい。この九重の屋敷にいる間、お前は他の名前を持たない」

 白妙はうなずくしかなかった。主人のほうをちらりと見ても、いいとも悪いとも言わず、表情も変えようとしないのだ。

 小さく笑う男の声に、夢胡蝶となった白妙は困惑混じりの目を向ける。男は愉快そうに目を細めていた。

「昔からそうだよ、その子は。だから彼が私の跡を継いだときが楽しみでならない」

「跡を……?」

「この屋敷の跡継ぎさ。……無駄話がすぎたな」

 夢胡蝶の背後で人の動く気配がある。主人が立ち上がって、男に会釈をしてから踵を返したのだ。彼はそのまま座敷を出て襖を閉めて、いずこへと行ってしまった。

 残された夢胡蝶は立ち上がることもできずに主人の出て行った場所と男とを交互に見遣る。

「奥座敷に布団を敷いてある。ついておいで」

「あの、」

 立ち上がる男を見上げながら、夢胡蝶は膝の上で両手をぐっと握った。

「俺の主人は、あの人ではないんですか? 屋敷の当主はあの人で、俺を買ったのもあの人と、そう聞いています」

「わからないかい? ほら、おいで」

 男は答えるでもなく歩き出すと、襖で仕切られた向こうの部屋へと向かう。薄暗い室内に行燈の火がほんのりと光っていた。衣桁に着物がかけられ、それがうまい具合に目隠しになって奥にある布団をほとんど見えなくしている。

 彼が部屋に踏み入ったところで夢胡蝶を見下ろしている。それでも夢胡蝶は立ち上がれなかった。主人以外の命令について、従えとも拒否しろとも言われたことがなかった。

 思えば自分は存外自由だったのかもしれない――――手元を見つめ、夢胡蝶はそんなことを考える。足元がぐらりと揺れたような気がした。そのときだ。行ってこい、と、主人の素っ気ない声が耳に届いた。それなのに振り返っても、あたりを見回しても彼の姿はない。

 夢胡蝶はまた男を見つめる。主人の指示に従って、この男のところへ行くより他ないのだ。

 しっかりとした足で立ち上がり、男の導くまま奥座敷に入る。襖を開けただけでは気づかなかった、甘い匂いが鼻をついた。どこかで香でも焚いているのだろうか。不思議と気分の落ち着く匂いだ。握ったままだった拳は解けて、強張っていた肩もすとんと落ちる。

 夢胡蝶が行燈のほのかな明りを頼りに衣桁を回り込んで布団に辿り着くころには、全身にうまく力が入らなくなっていて、ほとんど崩れ落ちるようにして目の前に倒れ込んだ。誰かに髪を撫でられる。それがひどく心地良く思えて、目を閉じるとそのまま眠りに落ちてしまうほどだった。

 彼は夢のなかで、主人に会っていた。ずっと閉じ込められていたあの部屋で、穏やかに微笑みかける主人に抱かれていた。

 次に目が覚めるとき、彼はひどく満ち足りた気分だった。主人の手が触れる感覚が、まだ素肌に残っているようだったのだ。

 枕元に畳んで置いてあった白小袖を着て、夢胡蝶はいつもの調子で布団の上で両膝を抱えて座り込む。こうしていれば、いつになるかはわからないが、また主人が来るような気がしていた。

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